HOME

 

森川剛光「羽入-折原論争への応答」2004.1.24.
以下の文章は、森川剛光様からウェーバー研究会のメーリングリストに配信されたものです。

 

 

皆様 今晩は

 

橋本努様 初めまして、そして論争のレフリー役ご苦労様です。

 私自身、橋本さんがいう「ヴェーバー研究者」のものの数に入っているのかどうか分かりませんが、まず言い訳がましいことから始めますと、ここ二年間は主に実家の方の問題とプライベートの問題で、極めて生産性が下がっておりました。もう一つは、私自身Weberの科学論集は読み込んだといっても恥ずかしくないのですが、倫理論文は内在的な反論役を積極的に買って出る自信があるほど、あるいは折原先生のような優れた内在的な反論がかけるほど読み込んでいたわけではありません。折原先生の本により、内在的な点で私がいいたいことはほぼ出てしまいました。

 「羽入本」は執筆動機から、偶像破壊という、学問内在的というよりは、むしろ政治的社会的性格を強くもっていたように思われます。その前提はいうまでもなく、日本における学問の権威としてのヴェーバーとヴェーバー学(あるいはヴェーバー産業?)の存在であり、それを破壊することが目的となるわけです。(それと山本七平賞は極めて政治的な色彩をもった賞であります。)ただし、橋本さんが指摘されているように、現代においてヴェーバーが権威かというと、私は疑問です。私自身は1969年生まれですから、畏怖もルサンチマンももたない世代です。したがって、羽入本が前提としているものが、羽入氏自身が想定している程度に存在するものかどうか怪しい現在において、彼のやっていることは不毛にも思えます。勿論、動機が学問外のものであっても、「知の成長」に貢献すれば、それでいいということにもなるのかもしれません。実際、羽入本の論点のなかから、救うに値するものを救おうという橋本さんの態度は、respektableなものです。

 むしろ私が興味を持つのは、折原先生が提起されている大学院教育の問題と、橋本さんが『未来』一月号十頁下段以降で述べている、「羽入事件」に対する知識社会学的問題及び草稿最後の「知識人対大衆」の問題です。また羽入書出版の当時から関心があったのは、彼の批判が妥当かどうかというよりもこの本がどのように読まれるかということに関心がありました。

 「羽入事件」が投げかける問題についてはもう少し考えてみたいと思いますが、とりあえず次の点だけ指摘させてください。(誤解を招くかもしれませんが)。私自身は日本においては、知の「誘惑」が過剰のような気がしてなりません。(私自身、批判的合理主義者ではないので、通常「知の成長」という概念を用いませんが)、「知の成長」を一国モデルで考えるならば、「入門書」や「啓蒙書」による大衆への誘惑も知の成長を促す意味で意味があるのかもしれません。しかし、国民国家一国単位の知のシステムや海外情報を独占的に紹介する知識人といった前提が昨今成り立たなくなってきている以上、知識人による大衆の啓蒙というモデルがどこまで維持できるものかどうか、また大衆への知の誘惑が知の成長に対してどれほど費用対効果の意味で効率的なものかどうかは疑問が残ります。(これも「知の成長」を有意に定義できたとしての話です)。また国民国家単位での知の成長モデルではなく、グローバルな規模の知のシステムを考えるのであれば、アカデミズムに生きる人間の責任は後者に対する貢献においてもありえると思います。

 したがって、「知識人による大衆の包摂」か「大衆による知識人文化の壊滅か」という二者択一の理念型モデル以外のモデルを用いた方が、「大衆による知識人文化の壊滅」を嘆くだけという結果を避けるためには、有意義のような気がします。それは同時にアカデミズムの役割を再考ないし、再定義することでしょう。(もう一つついでにいえば、知識人が大衆を啓蒙しているのか、それとも文化産業に知識人が(本人は啓蒙を行っているつもりでも)搾取され、消費財を造らされているのか一見しただけでは判断は難しいような気がします。同じ事態も価値観点によっては別様に記述できるということなのかもしれませんが)。

 もう一つ、橋本さんの原稿での「知識人」は1.巨人や大家のテキストを解釈できる、読むことが出来る人間、2.アカデミズム内部の、大学に職を持っている人間の二つの意味でどちらが優勢なのでしょうか。1.が必ずしも2を意味しないし(例・在野の著名なヘーゲル翻訳者)、2もまた1を必ずしも1を意味しませんよね。2になれるかどうかは、知的能力よりも「僥倖」が重要であることは、ヴェーバーの昔も今も変わらない現実です。

 なんだか長くなってしまいました。橋本さん宛に直接メールをすればよかったかもしれませんね。皆様申し訳ありません。

 

それでは

2004124

森川剛光拝

 

 

◆森川剛光さんの略歴をご紹介いたします。

 

森川剛光(もりかわたけみつ)

1969年生

慶應義塾大学経済学部卒。同大学博士課程単位取得退学。1997年よりドイツ学術交流会奨学生として、カッセル大学留学。2001年Dr.rer.pol.(カッセル大学・社会学)取得。1998年−2003年カッセル大学(社会学・哲学)及びハイデルベルク大学(日本学)非常勤講師。現在日本学術振興会特別研究員(東京大学総合文化研究科)。4月よりフリーランスの通訳・翻訳者。

専攻:社会学理論、社会科学のための哲学、社会思想史、宗教社会学・文化社会学

主著:Takemitsu Morikawa: Handeln, Welt und Wissenschaft. Zur Logik, Erkenntniskritik und Wissenschaftstheorie für Kulturwissenschaften bei Friedrich Gottl und Max Weber, Wiesbaden 2001.(日本社会学史学会奨励賞受賞作)

主要論文:森川剛光「理念型の再解釈」『三田学会雑誌』20004月、931号、189-218頁。

分担訳:土方透編訳『宗教システム/政治システム——正統性のパラドックス』新泉社、2004年(印刷中)